文学の一燈

~せめて小さな“ともし火”をともそう~

高村光太郎 「智恵子 抄」 非情の純愛 絶対孤独への反証

 「そんなにもあなたはレモンを待ってゐた」―日本文学史に永遠に残る愛の絶唱であろう。歌った男の名は、高村光太郎。歌を贈られた女は、妻、智恵子。この日、智恵子は、七年にわたる精神病と肺結核とにより、ついにこの世を去った。世を去った? いや、そんなごまかしはやめよう。そんなお決まりの慣用句で、この夫婦の愛を語ろうというのか。逃げてはいけない。愛は非情だ。その非情さから逃げてはいけない。僕は、非情の言葉で、この夫婦の愛を語らねばならない。正直に語れ。然り。智恵子は、殺されたのだ。誰に? 無論、智恵子の最愛無二のひと、光太郎に。智恵子は光太郎に殺された! 何故に? なぜなら、ふたりは愛し合っていたから。夫は妻を狂気させるほど愛し、妻は夫を文字どおり死ぬほど愛した。ふたりは愛し抜いた。そしてふたりが愛し抜いた先には、狂気と死とがあった。その愛を殺人と言わずして何と言おう。愛は非情だ。愛の究極は殺人に至る。故に、愛と死とは同義語である。

 妻、智恵子。福島県二本松の造り酒屋、長沼家の長女として何不自由なく育ち、東京の日本女子大に進学、そこで洋画に出会う。智恵子は洋画の魅力に心を奪われ、芸術生活に没入した。大学卒業後も実家の反対を押し切って東京で洋画の猛勉強を続け、平塚らいてうの婦人運動にも参加し、「青鞜」創刊号の表紙を描くなど、新進気鋭の女流画家として歩み始めていたその時、知人の紹介で光太郎と出会うことになる。当時の光太郎は無頼の放蕩児であった。ニューヨーク、ロンドン、パリに留学し、世界の最新芸術に触れて帰朝した光太郎にとって、木彫の名人とされる父、高村光雲に代表される日本美術界は、超克すべき前時代の旧弊な遺物であると同時に、打てども叫べども微動だにせぬ圧倒的権威であった。自らの無力感から逃避するかのように光太郎の日常は荒廃した。飲んで暴れて、浅草の女給に通いつめ吉原の娼妓に失恋した。智恵子が出会ったのは、そういう時期の光太郎であった。そしてたちまち、ふたりは恋に落ちるのである。それまでインテリ臭いサロンの常識人的な芸術家しか知らなかった智恵子にとって、触れる者の皮膚を切り裂く尖鋭なナイフのような孤高孤独の光太郎の姿は、芸術という観念を粘土にして人の姿に捏ね上げたような芸術の化身に思えたであろう。そして光太郎もまた、その荒廃し汚濁した心身を、智恵子から溢れ流れる無垢の信頼と愛情の奔流によって浄化されるのである。智恵子は光太郎に熱い恋文を送り、光太郎の写生旅行先まで追いかけてきた。光太郎もまた、智恵子に出会えた無上の喜びを歌いあげた。「あなたは私の為に生まれたのだ 私にはあなたがある あなたがある」と。

 旧本郷区駒込林町のアトリエ兼住居で、光太郎智恵子の同棲がはじまる。そのアトリエは、ふたりきりの空間であると同時に、ふたりを外の世界から隔離する言わば「結界」となった。アトリエの壁の中は、ふたりだけの聖なる異世界であった。そこには外界にうごめく愚かで汚らわしい人間どもの姿も、その人間どもの繰り広げる醜悪な痴態愚行も、そういう不愉快なものはいっさい存在しない。その清浄な異空間には、ただふたりの愛し合う男女があり、ふたりだけの高い理想があり、ふたりだけの情熱があり、そしてふたりのめざす芸術があった。光太郎智恵子の生活は芸術に純化した。光太郎は高らかに宣言する。「僕等は高く どこまでも高く僕等を押し上げてゆかないではゐられない 伸びないでは 大きくなりきらないでは 深くなり通さないでは ―何といふ光だ 何といふ喜だ」と。

 もっとも、ふたりの芸術的生活は窮乏した。新しい着物を仕立てることもできなくなった智恵子は、いっさいの装飾をその身から捨てて、髪もおかっぱに短く切り、粗末なセーターとズボンだけで日常を過ごすようになった。けれども、それがかえって智恵子の生来の美しさを際立たせることになった。そのことを光太郎は驚きとともに賛美する。「あなたが黙って立ってゐると まことに神の造りしものだ。時時内心おどろくほど あなたはだんだんきれいになる。」と。光太郎はむしろ窮乏の境遇を喜んでいるのだ。あたかも窮乏こそがふたりの芸術的生活の純粋さの証しであるかのように。そしてそのような窮乏の中でさえも輝きと美しさを増す智恵子を神の造形として礼賛し崇拝するのである。光太郎にとって、純粋な芸術をめざす者は世俗の富貴を享受してはならなかった。窮乏と、その果てにある餓死とが、芸術家のあるべき運命であった。光太郎は、「私達の最後が餓死であらうといふ」不吉な予言を智恵子と語り合って、むしろ幸福を感じている。光太郎は、生涯にわたって、死と隣接する窮乏生活への憧憬を抱き続けた。青年期の北海道移住計画、智恵子とともに半生を過ごした駒込アトリエでの窮乏生活、そして戦後の岩手の山村での独居自炊。光太郎は、生涯を通して常に窮乏している。まるで窮乏しなければならぬかのように。光太郎にとって、芸術は金銭とは両立しないものであった。特に造形作家である光太郎にとっては、この世にひとつしかない作品を売買して金銭に換えることは、すなわちこの世に存在する唯一の美を、金持ちの所蔵庫に監禁することにほかならなかった。光太郎は自分の作品を金銭に換えざるを得ない現実を嘆く。「所有は隔離、美の監禁に手渡すもの、我。」と。けれどもそういう光太郎自身が、智恵子という唯一無二の美を、異空間のアトリエの中に監禁して、誰の目にも触れさせることなく独占して鑑賞する喜びに恍惚としていたのである。光太郎は、智恵子の心身を、おのれの芸術的理想を体現する芸術作品として監禁し、鑑賞し、堪能した。そして智恵子自身もまた、光太郎が求める理想のままに、一個の芸術作品であろうとした。生身の芸術作品である。智恵子は、旧友たちとの交友関係も絶ち、外界との交流を途絶して、光太郎とふたりだけの異空間の芸術生活に一途に献身し続けた。窮乏にあえぐ日常生活をやりくりする主婦として生きながら、同時に光太郎の理想を体現する芸術作品として生きた。

 しかし、生身の芸術作品として生きることの苦悩は、ついに智恵子の心身の限界を超える。いや、いっさいの人間の限界を超えるであろう。「人生は一行のボオドレエルにも若かない」と芸術至上主義を宣言した芥川が自殺したように(昭和2年)、「芸術は私である」と結論して自らを芸術と一体化しようとした太宰が自殺したように(昭和23年)、生身の芸術作品として生きようとした智恵子もまた、昭和7年、睡眠薬で自殺を図る(46歳)。智恵子の自殺未遂の原因として、実家の破産、あるいは自らの絵画の才能への絶望等が挙げられることが一般的である。光太郎自身も後年の手記でそのように記している。が、僕はそうは思わない。それらは原因の一部であったとしても、主要な原因ではない。智恵子を死ぬほど苦しめたものとは、彼女をおのれの理想を体現する芸術作品として崇拝し、監禁し、一体化しようとする光太郎の芸術的激情であり、すなわち光太郎の智恵子に対する愛そのものにほかならない。その愛は、純粋であり、熾烈であり、過酷であり、そして非情であった。智恵子は、その非情の愛に殉じようとした。生身のままでは芸術作品になれないのであれば、生身の体を捨てるしかない。その夜、千疋屋で買った果物をテーブルに配置し、イーゼルに真白のカンバスを立てかけて、智恵子は催眠剤一瓶を飲んだ。死後、生身であるが故の束縛を捨てて自由な魂となって、その静物画を描くつもりだったのであろう。が、智恵子は死ななかった。そうして、その後、精神病(統合失調症)が進行する。智恵子の自殺未遂に衝撃を受けた光太郎は、智恵子の回復のために全力を尽くした。それまで光太郎は入籍という世俗的な婚姻手続を無視してきたが、同棲二十年にしてようやく智恵子を入籍した。ふたりは名実ともに夫婦となった。九十九里浜への転地療法も試みた。父光雲の死去(昭和9年)で得た遺産もすべて智恵子の治療に充てた。ここにおいて光太郎ははじめて、智恵子をおのれの芸術的監禁から解放し、世俗的な夫としての愛情を妻智恵子に注いだのである。九十九里浜の松林の一角に立って「光太郎智恵子光太郎智恵子」と一時間も連呼するようになった智恵子の狂気した姿を見つめる光太郎の目は、妻を愛おしむ夫の悲しみに満ちた目であり、芸術家としての非情の目ではない。が、光太郎の夫としての努力はすでに遅かった。智恵子の病状は悪化するのみで、もはや日常生活を送ることが困難となり、品川のゼームス坂病院に入院するも病状好転せず、昭和13年、智恵子は光太郎がわたしたサンキストのレモンをひと口かじって、この世を去る(52歳)。

 智恵子を失った光太郎は、芸術家としてもはや死んだも同然であった。智恵子は、光太郎にとって、おのれの芸術作品を見せるべき唯一のひとであり、おのれの芸術作品を理解し喜んでくれる唯一のひとであった。そのひとを失ったいま、光太郎の芸術的衝動は行き場を失い、その奔流は民族的情熱と自己犠牲の純粋性へと向かう。戦時下の窮乏する国民生活は、あたかも光太郎が理想とする芸術的窮乏生活が駒込のアトリエから溢れ出て日本国民全体の理想になったかのような幻想を光太郎に抱かせる。大いなる大義のために、日本民族が極限の窮乏に耐え忍びながら至難の戦いの道を歩んでいる! しかも、その戦いは、かつてその圧倒的な文化によってアジアの貧しい留学生に過ぎない光太郎のプライドを完膚なきまでに打ちのめした欧米列強を相手にした戦いであった。帝国の臣民すべてが天皇のもとに一体となり、民族の滅亡を覚悟して至高の芸術的完成をめざして戦っているのだという壮大なフィクション。その虚構の美に没入した光太郎は、大東亜戦争勝利すべく軍当局の文化政策に惜しみなく協力し、戦意高揚のための戦争詩を量産した。光太郎にとってそれは決して嘘ではなく、日本民族としての真実の美を守る戦いであった。が、光太郎の情熱は虚しく空回りしただけに終わり、愛する母国日本は欧米列強の容赦ない報復を受けて全土を焼き尽くされて敗戦する。智恵子と過ごしたアトリエも空襲で焼失してすべてを失った光太郎は、戦争に仮託していた民族的パッションの幻想から覚醒すると、再び窮乏生活の衝動に追い立てられるかのように岩手県花巻の寒村に移住し、粗末な山小屋を建てて農耕自足の独居生活に入る。

 独居七年。造形作家でありながら一体の彫刻を生み出すこともなく山村の窮乏生活に明け暮れていた光太郎の元に、十和田湖畔の記念彫刻制作の依頼が舞い込む。光太郎は、智恵子の裸像を創る決心をして山を降りた。光太郎最後の作品となる十和田湖畔「乙女の像」である。制作一年。十和田湖畔に立つそのブロンズ像は、同形二体の裸婦が左手の平を会わせて相対している。向かいあう二人の智恵子。何故、二人なのか。なぜなら、光太郎にとって、智恵子は二人いたから。一人は、絵画が大好きで、光太郎を旅行先まで追いかけてきた情熱あふれる人間の女としての智恵子であり、そしていま一人は、光太郎を絶望の闇から救い、その荒廃した魂を浄化してくれた神の造形としての智恵子である。この二人の智恵子が影と形のごとく相反しながらも一体不可分となって、智恵子という一個の肉体に宿っていたのだ。光太郎は、粘土とブロンズとによって、智恵子の肉体に宿っていた智恵子の精神の人性と神性の両面性を、二人の智恵子として再びこの世に造形した。光太郎は確信する。「わたくしの手でもう一度、あの造型を生むことは 自然の定めた約束」であると。造形作家である光太郎は、あくまで目に見え手に触れることのできる世界の存在のみを信じた。智恵子の魂と光太郎の魂とは、その互いの血のかようあたたかい肉体をとおしてはじめて触れ合い、共鳴した。智恵子の肉体が滅びた後は、光太郎は自身の肉の内に智恵子の魂の存在を感じていた。光太郎は言う。「元素智恵子は今でもなほ わたくしの肉に居てわたくしに笑ふ。」と。そして、おのれの死後もなお幾千年にわたって智恵子の魂の依り代とすべく、神に替わって自らの手で、再び智恵子の肉体をこの世に造形したのである。

 智恵子の像の完成から三年後の昭和31年、光太郎は世を去り(73歳)、その肉体は「天然の素中」へと帰った。そして光太郎と智恵子という男と女が歩んだ非情の愛の記録は、一冊の詩集「智恵子抄」として結晶した。それは、所詮空虚な確率的存在に過ぎない幻覚の世界をあてもなく彷徨するだけの僕らの魂が、この無明無音の絶対孤独の闇においてもなお、目に見え手に触れる肉体という魂の依り代をとおして、おのれの探し求める半身の魂に邂逅する可能性があるということの稀有な実例であり、それ故それは、僕らの魂は永劫にわたって絶対孤独であるという神の定めた根源的絶望に対して突き付けられた反証であり、すなわち、沈黙する神に替わって人類が自らの手でおのれ自身に啓示した救いの言葉にほかならない。そしてそのような根源的絶望を肉体をとおして超克しようとする人間の意志こそが「愛」であり、そこに「いのち」が創出される。そして、そのあまりにも激しい「愛」と「いのち」の創造的営みに、智恵子の精神は耐えられなかったのである。それは、魂の絶対孤独という神の定めた運命にあくまでも反逆しようとする光太郎智恵子に対する神の嫉妬と怒りであったともいえよう。光太郎と智恵子の愛は神の報復を受けたのである。そしてまた、その神の報復こそが、ふたりの愛が真実であったことの証しとなるのである。

 光太郎は、「智恵子抄」を書き遺すことで絶対孤独の絶望の闇を彷徨するだけの僕ら人類の魂に「愛」という道標を示し、智恵子のブロンズ像を造形することで幾千年にもわたる智恵子の「いのち」の再生を果たした。「愛」の絶唱と「いのち」の創出と。芸術家としての仕事をやり遂げて今生を去った光太郎の魂は永劫の転生をくりかえし、そして再び智恵子の魂と邂逅するであろう。そのあたたかい肉体のふれあいをとおして。たとえそこに神の畏るべき報復が待っていようとも。