文学の一燈

~せめて小さな“ともし火”をともそう~

カフカ「変身」 絶望の二十世紀と不条理文学

 しばしば耳にすることがある。地位も名誉もある立派な男が、そうだ、この男は実に社会の模範たるべき人物で、もう、そうとしか言いようのない完璧な人物で、十歳にして近隣で神童ありと騒がれ、十有五にして町始まって以来の英才との名声既に高く、その期待どおり超一流大学に易々と合格して断トツの首席で卒業、旧財閥系の名門企業に就職してとんとん拍子に出世して今や毎日電話一本で数百億円を右から左に動かすような巨大プロジェクトのリーダーとしてバリバリ働き、四十歳を待たずして早くも次期取締役候補との呼び声も高く、もちろん給料は一般人どもの平均年収の軽く五倍、コンシェルジュ付きの高級タワーマンションに居を構え、しかもその人柄たるや謙虚かつ誠実にして廉潔、さらに柔道三段、剣道五段の腕前で文武両道を極め、毎朝一日十キロのジョギングを欠かさず、趣味は現代美術から古典落語まで広範にわたり、そのユーモアたっぷりの豊富な話題で自然と人々の輪の中心となり、おまけに眉目秀麗で長身、均整の取れたスタイルはまるで映画俳優のようで、そしてそういう彼がこよなく愛する家庭はと言えば、名門女子大出身で、学生時代にはミスなんとか日本代表コンテストで準ミスに選ばれ大学卒業後は英国の名門大学に留学、帰国後は母校の女子大の英文科講師をつとめる傍ら現代英文学の翻訳家、評論家としても活動して出版業界での評価も高い才色兼備の賢妻と、お利口で礼儀正しい二人の子供たち、上の小六の男の子は超難関私立中学の受験前で毎日五時間も有名進学塾で勉強して帰宅後も夜中の二時まで自学研鑽、全国模試でも常にトップクラスの成績をおさめ、もはや合格まちがいなし、彼が不合格なら我々はみんな講師を辞めますよ、と塾の講師たちもそろって太鼓判を押し、それでいながら少年サッカーチームにも所属してレギュラーとして県大会に出場し、チームは惜しくも準決勝で敗退したけれども個人として優秀選手賞を受賞、日焼けした顔に白い歯がよく似合う明朗闊達な目元涼しい美少年で、バレンタインデーには肩から下げた大きなスポーツバッグが一杯になるほどのチョコレートを学校中の女の子から渡されるのが唯一の悩みの種、また、下の小三の女の子はクラシックバレエとピアノのレッスンに通っていて、それぞれのスクールの先生、いずれも世界的コンクールで入賞経験のある高名な先生なのだが、そういう先生たちでさえ、ほんとに末恐ろしいわ、と戦慄するほどの溢れる才能の片鱗をすでに見せて、周りの大人どもが、将来はバレリーナだ、音楽家だ、いや宝塚だ、いやいや映画女優だよなどと騒いでいると、本人は泣きべそをかいて「ケーキ屋さんになりたいもん」などと愛らしいことを言っていよいよ周りの大人どもを悶絶悶死させるという、そういう、我々庶民どもとはおよそ生きる世界が違う彼、その彼が、ある日、ある朝、満員の通勤電車の中で、女子高生に痴漢行為を働いて逮捕され、仕事も家庭も一切合財、もう、ありとあらゆる人生のすべてを一瞬のうちに失うという、そういうまことに奇怪な事件を、朝のテレビニュースで耳にして思わず朝飯の箸が止まった、などという経験は誰しも一度や二度ではないはずだ。

 これは、いったい、どういうことだろう。奇怪、としか言いようがない。曰く、不可解。理不尽にも程があるよ。魔がさした、という言葉があるが、まさしくこれは、悪魔の仕業だ。まともな人間のやることではない。まして、人間として最上級の知性と品性を兼ね備えた彼のような人物がやることではない。まったく理屈にあわない。が、事実なのだ。現に、いま、僕の目の前で起こっている事実なのである。この事実を、僕は、事実として受け入れなければならない。完全無欠の彼の耳に、悪魔がささやいたのだ。「さあ、すべてを失え」、と。そして彼は、その悪魔の声に無意識のうちに従ったのだ。そして文字どおり、すべてを失った。駅員たちに取り押さえられ、ホームのコンクリートに顔を押し付けられてはじめて、彼は、悪魔のささやきから目覚めて、はっと気が付くのだ。何だ、なにが起こったんだ? おれは、いったい、何をしたんだ? 痴漢? おれが痴漢だって!?

 おお、何という恐ろしさであろう。こんな奇怪なニュースに接する度に、僕は、戦慄するのである。悪魔がいる、と。いや、しかし、それは悪魔なのであろうか。悪魔も、もともとは偉い天使であったという。ひょっとして、彼の耳にささやいたのは、天使だったのではないか。天使が、神の声を、人生を根こそぎ破滅させる、その恐ろしい聖なる命令を、そっと彼の耳にささやいたのではないのか。そして、もうそれだけで、どんなに完璧な人間でさえも我を忘れて無意識のうちに愚かしい行為に走って、これまで築き上げてきた全てのものを失うのだ。そして、そういう憐れな人間の姿を見て、天使は、冷たい微笑を浮かべながら、こう語りかけるのだ。見よ、おまえたち人間など、所詮、その程度の存在なのだ。合理的精神だの科学的思考だのと言って恰好つけていても、突如として、何の脈絡もなく、まったく無意味に、訳のわからない、何の得もしない衝動的行動に走る、それが、おまえたち人間の真の姿なのだ。おまえたち人間が自慢する知性とやらは、おまえたち自身の不条理な衝動を抑制することさえできないではないか。そんな非論理的な衝動に支配される不完全な存在に過ぎぬおまえたちが、全知全能の神の座を奪おうなんて、何とまあ、恥知らずなことだとは思わないのか。聞くところによると、人間は、神を殺したんだって? 笑わせるんじゃないよ。おまえたち人間なんぞに、神様が殺されたりするものか。バベルの塔の無残な敗北をもう忘れたのか。たった今、おまえたちは見たであろう、この完璧としか言いようのない男の不条理な行動を。この不条理こそは、神様が人類にくだした警告だ。おまえたち人類は、合理的でも科学的でも論理的でもない。非合理的で、非科学的で、非論理的な衝動に支配される不条理な生き物に過ぎない。さあ、もう、自らが建設したバベルの塔を崇拝するのはやめるがよい。自分で自分を崇拝して何の意味があろう。それを偶像崇拝と言うのだ。バベルの塔は倒れた。天に弓ひくような愚かな真似はもうやめて、神様の御もとに戻ってきなさい。神様は、すべてをゆるしてくれる、と。

 そういう天使の戦慄すべき声を不幸にも聞かされた人間の一人が、憐れな愛すべき男、わが友、グレゴール・ザムザ君であった。と言っても、ザムザ君は、満員電車で痴漢をしたのではない。さえない市井の一労働者に過ぎないザムザ君が痴漢をしても、べつに不条理ではないからだ。誰も驚かない。あら、やっぱりね、そういうひとだと思ってたわ、の一言で片づけられてしまう。だから、ザムザ君は痴漢などはしない。ザムザ君を襲った不条理は、そんな生半可なことじゃない。そうではなくて、ザムザ君は、或る朝、目が覚めると、虫になっていた。理由はない。ひとは常に理由を求める。いかなる現象にも合理的理由があると考える。それは、理由がある方が安心できるからだ。けれども、ザムザ君の変身に、そんな理由はない。天使がささやいた神の警告なのだ。もはや人知を超えているのだ。だから、人間が納得するような合理的理由などあってはならない。繰り返す。理由など、ひとカケラも、ただの一言も、あってはならない。いきなり、虫になっていなければならないのだ。では、なぜ虫なのか。犬や猿ではいけなかったのか。いけないのである。虫でなければならない。人類の知性から最も遠い生き物でなければならない。べつに植物でも良かったのだが、植物はちょっと知的な思索家の雰囲気を持つことがあるから厄介だ。サボテンなんか、けっこう何か考えていそうだ。深山の千年杉は、神々しい威厳さえ漂わせている。植物は、これは、なかなか要注意だ。だから、やはり、ここは、虫。何としても虫でなければならない。それもゴキブリのような、コゲ茶色の外骨格で覆われた、いかにも醜悪な虫。人類とは何の血縁関係もない生き物の象徴としての虫。平凡なるセールスマンに過ぎないザムザ君は或る朝突然、何の理由もなしに、そのような醜悪な怪虫に変身したのである。この不条理!確かにそれは、完璧なるエリートが或る朝突然、理由もなく痴漢をする不条理よりもはるかに恐ろしい不条理だ。神が人類にくだした戦慄すべき警告。かくして、不条理文学の不朽の名作「変身」は生まれた。

 19世紀、人類がキリスト教を知る以前の古代ギリシャ・ローマ文化の燦然たる光が復活し、非キリスト教的人間中心主義が全盛となった。「19世紀ルネサンス」である。人間は神をめざして天高く登り、天界の門をこじ開け、神殿に上がり込んだ。ゴッホの描くひまわりは太陽が生み落とした地上の日輪のように輝き、ニーチェは神が殺されたことを宣言した。しかし、19世紀ルネサンスにおける天才たちの奮闘もむなしく、人類は神にはなれなかった。人類は何も、変わらなかった。天界の神の座に向かって燃え上っていたはずのゴッホの糸杉は、不気味に渦巻く混沌とした闇空に阻まれて行き場を失い、ニーチェは孤独のうちに狂死した。敗北した人類は、暗澹たる世紀末を経て、絶望の二十世紀を迎える。「人類の黄昏」である。バベルの塔は再び倒れたのだ。古代ギリシャ・ローマ文化の燦然たる光は消え去り、世界は闇につつまれる。そして、人類に殺されたはずの神が復活する。いや、復活、と言うべきではない。そもそも死んではいなかったのだから。死んだふりをしていたに過ぎない。人類が神殺しに熱狂した百年間にわたって沈黙してきた神の「復讐」が始まった。神は、絶望に震える人類に警告した。おまえたちは、所詮、不完全な生き物に過ぎぬ、と。おまえたちが悔い改めない限り、世界は恐怖と殺戮に満ちた地獄と化すであろう、と。そしてその後、二十世紀の人類は、その警告どおりの地獄を経験することになるのだ。世紀末から二十世紀初頭にかけて、そういう神の警告を、はっきりとその耳に聞いた一群の天才たちがいた。そして彼らは思い至るのである。人間は、そもそも、19世紀ルネサンスの天才たちが夢見たような完全なる存在などではなく、不気味で得体の知れぬ衝動に突き動かされる不条理な存在に過ぎないのではないのか、と。いや、そもそも、この世界それ自体が、何の秩序も法則も存在しない混沌と偶然の幻影に過ぎないのではないのか、と。19世紀が燦々と輝く太陽の世紀とすれば、20世紀は不気味な得体のしれぬ闇夜の世紀となった。人類は太陽を失った。ピカソは「ゲルニカ」で、太陽を失った二十世紀の人類が電燈の人工太陽の下で殺戮に狂奔する醜悪な姿を容赦なく写し取った。カミュ「異邦人」の主人公ムルソーは、ママンが死んだ時と同じ灼熱の太陽の下で五発の銃弾をぶっ放して太陽の下の幸福を自ら永遠に失い、夜の独房で処刑を待つ身となった。そして、憐れなザムザ君は、虫になった。

 虫になったザムザ君は、まことに気の毒な境遇となる。愛する家族には忌み嫌われ、父親に投げつけられたリンゴが背中にめりこんで致命傷となり、夜明け前に独り静かに息を引き取るのだ。そして家族は、平和で幸福な生活を取り戻すのである。人間の本質が非論理的な衝動に支配される不完全な存在に過ぎないということを認めることは、人間にとって苦痛である。とりわけ自分が合理的で論理的な人間であると信じている人にとっては、受け入れがたいことであろう。それは、人間の自由意志の否定に他ならないからだ。自分が知りもしない見たこともない何ものかによって操られている、ということを自らすすんで認める者はいないであろう。みんな、自分は自分の自由意思で行動していると信じている。だから、たとえ非論理的な衝動に突き動かされて意味不明な馬鹿馬鹿しい行動をとったとしても、たいていの人は、自分のその行動に何らかの意義付けをしようとする。損得勘定で合理的に説明しようとする。そして、これは私が自ら決めたことです、そうですとも!これは、私が正しいと信じてやったことなのです、私の意思でやったのです!と主張する。けれども不幸なるザムザ君の場合、そんな合理的な説明の余地がなかった。まさか自分の自由意思で醜怪な虫に変身する人間など、いるわけがないのである。合理化不可能だ。ザムザ君は、疑いようもなく、不条理な何ものかに操られて虫になってしまった。ザムザ君の責任ではない。だからザムザ君自身は、これっぽっちも罪の意識などない。罪? そもそも、罪でさえない。虫になっただけなのだから。が、ザムザ君自身はそれで良いとしても、彼の周りの人間にとっては、そのような不条理は許しがたいことなのである。ザムザ君が虫になった合理的理由がなければならないのだ。そうでなければ、自分たちの世界の秩序が崩れてしまう。愛すべき善良なる市民たちにとって、世界の平和と家族の幸福は、合理的秩序を守ることによって実現されるのである。どんなにささいな不条理も見過ごしてはならぬ。「蟻の一穴」というではないか。この世界全体の合理的秩序が、ほんの小さな不条理を見過ごしたせいでぼろぼろと崩壊し、ついには無秩序の混沌のうちに溶解してしまうかも知れないではないか。とんでもないことだ! グレゴールめ! なぜ、虫に変身したのだ!? 理由を言え! と、いうわけで、父親は、ザムザ君に林檎を投げつけるのである。林檎、すなわち、知恵の実。人間が神と対峙する原因となった知性の象徴。その林檎を、虫になったザムザ君に投げつけるのだ。林檎は、ザムザ君の背中にめり込んだ。が、ザムザ君の変身の理由は、知恵の実をもってしても何ら解明できなかった。林檎は腐り、ザムザ君の体を腐らせ、ついにはザムザ君を死に至らしめる。知恵の実と、ザムザ君の不条理とは両立できなかったのである。傲慢なる人間に対する神の警告として虫に変身したザムザ君は、人間の知性の象徴である知恵の実によって殺された。そして、ザムザ君の家族は、元どおり、いや、以前にもまして、あたたかい幸福の予感につつまれて、カフカ一世一代の名著「変身」は幕を閉じるのである。とすれば、「変身」は、結局のところ、人間が神に勝利したことを描いた小説なのであろうか? 人間の知性は、ついに不条理をも超越できるというのか?! そんなわけがない。ぜんぜん、そうではない。むしろその逆である。知恵の実は「腐った」のである。そしてザムザ君も、傷口の炎症が広がって死ぬ。知性が腐り、不条理も死んで、その後の世界に残されたものが、ほのぼのとした「家庭の幸福」なのである。知性も不条理も、そのどちらも、罪なき生活者の幸福にとって邪魔なものでしかないのだ。人間が神を超越するだの、あるいはその反対に、神が人間への警告として不条理をささやくだの、そんなことは、いずれも、日々を一生懸命に生きる真面目な生活者たちにとっては、元々どうでもいいことなのだ。まさしく、どうでもいいのである。彼らにとって重要なことは、「秩序」である。秩序は、知性ではない。なぜなら秩序は考えることを必要としないからだ。いや、秩序は、考えることを禁止するのだ。秩序とは習慣であり、ルールであり、制服である。だから、父親は、わざわざ制服に身を固めて、かつて息子だったはずの怪虫に林檎を投げつけたのである。彼は、一家の父親として、この世界の秩序を守らねばならないのだ。秩序に従っていれば、幸福が保証される。その秩序を破るものは、それがたとえ息子でも容赦なく殺す。それが罪なき生活者たちの人生の掟なのだ。そして、ザムザ君の死骸を前にしてはじめて、幸福なる一家は、神に感謝の十字を切るのである。ザムザ君の死のおかげで、彼らは神の元に戻ってきたのだ。神の思惑どおりである。自らの不完全性に絶望して闇夜をあてもなく彷徨していた二十世紀の人類は、不条理という「神の罠」(=「奇蹟」)によって、百年ぶりに神の元に戻ってくるのである。

 神に敗北し、世紀末に絶望した人類が太陽を失って闇夜をさまよい、電燈の薄暗い明かりの下で殺し合い、逃げまどい、日の昇らない真っ暗な地平線の果てにようやく光を見つけたと思って近づいてみたら、それはかつて人類の手で破壊し瓦礫と化した神殿に捧げられたろうそくの残り火であったという、そのひどい「徒労感」こそが、二十世紀の文学のテーマであろう。神の「復権」と言ってもよい。それでは再び、世界は神の支配へと戻るのか。人類は、無知文盲の暗黒の中世に戻って、ゲルマンの森の奥で魔女狩りのいけにえを火あぶりにするのか。そうかも知れぬ。所詮、人類は、その程度の愚かしい生き物ではないか。神はすべてをお見通しさ! と天使はささやくだろう。が、そうであろうか。この不条理を超克して、人類が再び、神と対等に対峙する日は来ないのか。ザムザ君は、死の間際、安らかで虚しい物思いの中で教会の鐘の音を聞く。白々とした夜明けを知らせる鐘の音だ。それは決して、暗黒の中世に人々を支配した鐘の音ではなかった。そしてザムザ君は、再び昇る太陽の光を感じながら死ぬ。ザムザ君の死は、絶望の中の死ではない。希望につながる死である。「異邦人」のムルソーもまた、処刑を待つ独房の中で夜のしじまに響くサイレンの音を聞きながら、生き返ったような幸福感にひたる。ザムザ君も、ムルソーも、少しも絶望していない。彼らは、不条理のために陥った死を前にしてはじめて、いっさいの桎梏から解放され、自由となった。それは、この世界の掟から、そして神の掟からも解放された完全な自由である。この不条理の犠牲者たちが感じた自由の喜びを、果たして神は予想していたであろうか。不条理は、人間だけでなく、神にとっても制御不能なのだ。人類はかつて、神に敗北した。バベルの塔は倒れた。人類は神を殺すことはできなかった。が、人類は、神の予想を裏切ることはできる。人類は、神の操り人形ではない、という自覚にこそ、人類の夜明けの可能性がある。そのことを、絶望の二十世紀において、不条理文学は指し示したのである。