文学の一燈

~せめて小さな“ともし火”をともそう~

太宰治「人間失格」とドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」の関連性

 おやおや。ずいぶん大げさな記事だこと。太宰とドストエフスキーだってさ。しかも「人間失格」と「カラマーゾフの兄弟」とはね!どうせ生かじりの浅薄な文学史の知識でもって、チンプンカンプンなトンデモ論をぶつぶつ唱えようってんだろ。やめろ、やめろ!馬鹿につける薬はないぜ・・・みたいな拒絶反応をする人たちに、僕は反論する術を持たない。なぜなら、その通りだからだ。この二人の超有名作家が自らの命を削りながら一字一字刻むように書いたであろう代表作の関連性だなんて、それこそ象牙の塔奥の院に何十年もこもって研究している大先生でさえ言葉にすることを躊躇するような深淵なるテーマについて、僕ごときが論評するなんて、そんなおこがましいことが、それこそ狂気の沙汰、暴挙妄言と言うべき愚行が、許されるはずがない!と思うことは、良識ある教養人であれば当然の反応であります。難しい話は、大先生にお任せしましょうよ。私らは、大先生のお話を、お説ごもっともと有り難く頂戴すればよござんすよ。

 と、まあ、世の中の良識ある人々からいかに諭され、なだめられようとも、僕は、その愚行をやるのである。何と言われようが、やる。断固やる。なぜかって?なぜなら、大先生のご高説に不満だからに決まってる。そもそも、大先生の説にひれ伏す必要などどこにもないわけで、小説というものは、読者が好きに読めばよろしい。と言ってるそばから、ほらほら聞こえるじゃないか、大学の講義棟の奥から自信と威厳に満ちた声が・・・いいかね、諸君、これが正しい解釈なのだよ、君の読み方は間違っている、根拠がないんだよ、根拠を示したまえ、直感なんかで小説を読むんじゃないよ、大作家に失礼じゃないか、まったく素人はこれだから困るよ!そんなレベルじゃ、単位はあげられないな!

 前置きが長くなった。大先生の悪口はもうやめよう。要するに、僕のおろかな行為を笑って許してやってください、というわけだ。単位なんかいらないから、好きに読ませてくださいよ。無論、根拠なんて、何もありません。参考文献も先行研究も全然読んでません。だって、研究論文じゃないもの。一読者の素直な感想文に過ぎない。あれとこれは、ほら、ここが似てるでしょう、ね、これって面白くないですか、って程度のつまらない感想文ですよ。そんな素人の感想文に目くじら立てることもないでしょう。

 で、ここからようやく、人間失格と、カラマーゾフの話になる。実に長かった。でもまあ、それぐらい用心するに越したことはない。さて、人間失格。太宰が、ドストエフスキーとの関連性を念頭に置いていたことは、これはもう疑う余地はない。だって、小説の中で、大庭葉蔵に「罪と罰」に関する会話をさせているんだから。で、たいてい、解説書では、人間失格は、ドストエフスキーの「白痴」と似ている、という話になるのが相場だ。通説と言って良い。そこで、僕は、こう思わざるを得ないのだ。似てるか?と。どうにも、似ていないのである。そりゃ、大庭葉蔵という主人公のダメっぷりが白痴のムイシュキン公爵に似ているじゃないか、と言われれば、そりゃそうなのだが、どうにも、しっくりこない。「白痴=無垢の人=ムイシュキン=葉蔵」という連想は、「無垢の信頼心は罪なりや」という葉蔵のセリフに引っ張られ過ぎてしまった印象を否めないのである。葉蔵自身はべつに、無垢の信頼の徒などではないし(無垢の信頼の徒は葉蔵の妻ヨシちゃんである)、無垢の信頼のすがすがしさを守ろうとして守れずに傍観するしかなかったのであるから、葉蔵は「白痴=無垢の人」というよりも、もっと複雑な存在であろう。僕は、葉蔵の中に、ムイシュキン公爵のような白痴性だけでなく、「罪と罰」のラスコーリニコフのような破滅的な無神論的近代合理性をもあわせて感じるのである。また、葉蔵が無垢の信頼の徒であったとしても、それだけでは作品ラストの「あの人のお父さんが悪いのですよ」というマダムのセリフが効いてこない。僕は、このマダムのセリフこそが、人間失格の中心テーマだと思っている。それは何も「金木の殿様」の子として育った太宰の実際の生い立ち云々の作家論の話ではなく、そういうことではなく、文学的な象徴として、このセリフが作品のキーとなる重要な意味を持たされているという意味である。なぜ、作品のラストが「お父さん」なのか。「お父さん」とは何なのか、という問題である。まさか、ここで太宰が、自分の性格破綻は実父の愛情不足のせいだったのです、などと発達心理学の解説みたいなことを述べているわけがない。そんな馬鹿な話ではない。では、この「お父さん」とは何なのか。なぜ、太宰は、最後の最後に「お父さん」を登場させたのか。この問題に解答を与えない限り、名作「人間失格」は、ラストで宙ぶらりんになってしまう。

 そうなると、僕としては、「人間失格」は「白痴」に似てますねとか、「罪と罰」に似てますね、といった話ではないと思わざるを得ないのである。むしろ、「人間失格」はドストエフスキーの作品群の混合物みたいですね、と言う方がしっくりする。そこで、はたと思いあたるのが、「カラマーゾフの兄弟」なのである。カラマーゾフの登場人物は、父親のフヨードルと、三兄弟(ドミトリー、イワン、アレクセイ)であり、特にこの三兄弟は、ドストエフスキー作品群の主人公たちの面影といちいち重なる。長兄のドミトリーは、ロシア的呪縛から脱しきれない半ヨーロッパ的知識人として「悪霊」のスタヴローギンと重なるし、次兄のイワンは、無神論的近代合理主義の化身として「罪と罰」のラスコーリニコフと重なり、そして同作の主人公と言っても良い三男坊のアレクセイは、無垢な存在としての「白痴」のムイシュキン公爵に重なるのである。要するに、カラマーゾフは、ドストエフスキーの長編小説群の集大成である。僕は、他の長編小説群は、カラマーゾフの登場人物を具体化・典型化するための習作に過ぎなかったとさえ思っている。

 すると、ここで問題なのが、親父のフヨードルである。この人物は、いったい何者なのか。何の象徴なのか。が、その答えは、すでにドストエフスキー自身が、カラマーゾフの中で暗示している。フヨードルは、「ローマ式の鼻」の持ち主だった。すなわち、フヨードルは、古代ローマ文化の象徴であり、ロシアの土着文化に対置される近代ヨーロッパの「非キリスト教的人間中心主義」の象徴なのである(なお、僕としては、親父の名前「フヨードル」が、実はドストエフスキーの名前であることにも注目しているのだが、それはおいといて)。そしてもうひとり、カラマーゾフでは、象徴的な人物が登場する。悪女グルーシェニカだ。「ミロのヴィーナス」のような体を持つこの美女を、親父のフヨードルと長兄ドミトリーが奪い合うのである。では、なぜ、「ミロのヴィーナス」なのか。これも単なる美しさの修辞ではないと僕は思う。グルーシェニカが「ミロのヴィーナス」でなければならない理由があるのだ。意味のない比喩など小説には存在しない。比喩には必ずその理由がある。

 近代ヨーロッパにおいて、特に19世紀は、第二のルネサンスと呼ばれるほど、人間中心主義が高まった。いわゆる「天才の世紀」であり(今日天才と称される人々の多くが19世紀に集中している)、文学史で「19世紀ルネサンス」と呼ばれる人類史上最も人類が輝いた時代だ。封建的あるいはキリスト教的な既存の権威はすべて否定され、息の根を止められた。神までも殺された(死んだのではない、殺されたのである)。「非キリスト教的人間中心主義」の全盛期である。人類至上主義の時代と言って良い。人類は、ついに天上界の門をこじ開け、神を殺し、世界を支配した(と思いこんだ)。その思想的基盤となったのが、中世ルネサンスと同様に、古代ギリシャ・ローマの非キリスト教的文化であった。キリスト教がまだ生まれていない古代ギリシャ・ローマの姿こそが人類本来の自由な姿だと礼賛されたのである。

 二十一世紀の今日でも、ヨーロッパの知識人が古代ギリシャ・ローマ文化に抱く崇敬の念は強烈である。教会の支配におびえつつゲルマンの森の奥で無知文盲のままに数百年におよぶ「暗黒の中世」を徒過してきたヨーロッパ人にとって、古代ギリシャ・ローマは今なお燦然と光り輝き、彼らをコンプレックスのどん底に落とし入れるらしい。映画「ローマの休日」は、ローマという自由の都で、ヘプバーン扮する美しい王女が旧弊で伝統的な権威を全て脱ぎ捨て、一人の「人間」の女性として生きる姿を描いた。あの映画のすごみは、ヨーロッパ人の古代ギリシャ・ローマへの憧れを理解してはじめて実感できる。シェークスピア「ジュリアス・シーザー」の名文句、「ローマに王はいらぬ!」に込められたルネサンスの中心テーマをエンターテイメントとして再構成した名画である。単なるお姫様のお遊び物語ではないのだ。ナポレオンは古代ローマ式の凱旋門をパリに建設した。ヒトラー古代ローマ式の敬礼(ムソリーニが復活させた)をナチスの正式な敬礼として模倣し、パリ占領時にはわざわざ凱旋門を行進した。西洋哲学書の序文なんかでおなじみの“Standing on the shoulders of giants”(「巨人」の肩の上に乗って)の“giants”とは、古代ギリシャ・ローマのことであり、より具体的にはプラトンアリストテレスのことである。僕はむかし、ある教養あるアメリカ人女性とお国自慢の雑談をしていて、僕が「日本は神武以来二千年以上の歴史があるのです。」とつい自慢したところ、そのアメリカ人女性は、「アメリカだって古代ギリシャ以来三千年の歴史があるわ!」とえらい剣幕で反撃されたことがある。たかが建国二百年のアメリカ人が、古代ギリシャを自らの文化的祖先として自慢するのである。それくらい、ヨーロッパ人にとって(そして半ヨーロッパ人であるロシア人にとっても)、古代ギリシャ・ローマへの文化的憧憬は絶対的なのである。19世紀は、その憧れの古代ギリシャ・ローマ文化が現実化した奇跡の時代だったのだ。

 けれども、人類は、ついに神に負けることになる。人類は神になれなかった。それどころか、自らの矮小さ、不完全さを思い知らされて、二十世紀を迎えることになる。「人類の黄昏」、すなわち「世紀末」である。最近は知る人もあまりいないようであるが、「世紀末」という言葉は、本来、絶望に満ちた19世紀末のことだけを指す文学用語なのである。神の座す天界をめざして燃え上がるゴッホの糸杉は嵐のように不気味に渦巻きうごめく闇空に阻まれ、超人を渇仰したニーチェは狂死しなければならなかった(そしてその後まもなく、人類は世界大戦で史上空前の大量殺戮の愚行を繰り広げ、人類ご自慢の合理主義・科学万能主義さえも不確定性原理によって止めを刺されるのである)。そういう世紀末の絶望的情景が舞台の遠景として配置されていることを頭に置いておかないと、世紀末文学の黒々とした深淵はなかなか見えてこない。

 世紀末に生き、世紀末と渾身で戦ったと言っても良いドストエフスキーが、「ミロのヴィーナス」(=古代ギリシャ)であるグルーシェニカを登場させている理由は、まさにこの世紀末という絶望的情景にこそあると僕は思う。親父フヨードル=古代ローマ、悪女グルーシェニカ=古代ギリシャという象徴を配置することによって、カラマーゾフの情景が、一気に、世紀末ロシアの絶望の翳に覆われるのである。繰り返すが、小説に、無駄な比喩などはない。それは、比喩だからこそ、重要なのである。直接的表現で描写するわけにはいかないからこそ、作家は、苦肉の策で、比喩によって、情景の中に象徴を配置するのである。そして、このグルーシェニカを、親父フヨードルと長兄ドミトリーとが奪い合うのである。古代ローマにとっても、古代ギリシャは憧れの対象であった。ローマ人は、ギリシャ人の美と知性をはげしく愛し、そしてはげしく嫉妬した。古代ローマの象徴であるフヨードルが、美しいグルーシェニカにのぼせるのも当然なのである。一方、長兄ドミトリーは、親父譲りの非キリスト教的人間中心主義を引き継ぎつつも、旧弊なロシア的呪縛から脱し切れない当時のロシアのインテリ階級の象徴(=スタヴローギン)であり、親父同様に古代ギリシャの女神グルーシェニカに憧れつつも、その恋が成就することはなく、親父との女神の奪い合いの果てに、親父殺しの疑いで牢獄に入ることになるのである。親父フヨードルの殺害は、すなわち、「古代ローマ=非キリスト教的人間中心主義=19世紀ルネサンス」の死である。ドストエフスキーは、フヨードルを殺すことで、絶望の世紀末が到来した当時のロシアの情景を描こうとしているのである。そこで問題となるのが、では誰が、フヨードルを殺したのか、ということである。

 カラマーゾフの後半部分は、このフヨードル殺しの犯人探しに関する謎解きのような様相となり、法廷推理小説として読むだけでも非常に面白いのであるが(そこがまたドストエフスキーのプロ作家としてのえらさでもあるのだけれども)、ドストエフスキーの死により、真犯人は謎のままである。ドミトリーは逮捕されて裁判にかけられるけれども、ドミトリーがフヨードルを殺したとすると、古代ローマ古代ローマを殺したということになってしまい、小説のテーマが「古代ローマの自殺」ということになってしまう。それじゃ小説として破綻する。フヨードル=古代ローマを殺した犯人とは、言い換えれば、19世紀ルネサンスの人類を敗北させた何者かであり、そうなるともう、犯人は「神」しかいない。が、いくらなんでも、神を殺人犯にするわけにはいかないであろう。ではどうするのか。「神」の代わりに、「人間に内在する限界=神になれない不完全性」を、犯人にするという方法もあろう。古代ローマは神に負けたのではなく、自らの不完全性の故に自滅したのだ、という論法である。その場合、真犯人は、無神論的合理主義の塊のような次兄イワンということになりそうだ。無神論的合理主義は、「古代ローマ=非キリスト教的人間中心主義」が行き着く果ての究極の人間至上主義である(その最終形態が共産主義であり、さらにその先にあるのが「悪霊」に登場する「人神」であろう)。次兄イワンを真犯人にするということは、古代ローマの究極である無神論的合理主義が内在的に不完全であったために人類は自滅した(=神に敗北した)、ということを意味する。が、しかしそれでは、「罪と罰」で描いたラスコーリニコフの犯罪と同じテーマになってしまう。それじゃ、わざわざ苦労して大著カラマーゾフを書いた意味がなくなる。では、最後に残った三男のアレクセイが真犯人なのか?アレクセイは、ロシア正教に身を捧げる「無垢の人」である。そのアレクセイが父親(=古代ローマ)を殺すというのは、いかにも無理がある。むしろ、ドストエフスキーとしては、キリストの正統な継承者と自負するロシア正教が新しく生まれ変わり、瀕死のロシアを救う姿をアレクセイに託したかったのではないか、と僕は思う。それくらい、ドストエフスキーの描写には、アレクセイへの期待と愛情がにじみ出ている。

 では、古代ローマを殺した真犯人は、誰なのか。今さら真犯人探しをしてもはじまらないが、まあ、話のついでということで、続ける。中世ルネサンス以来、「古代ローマ=非キリスト教的人間中心主義」が徹底的に攻撃してきたのは、ローマ・カトリックバチカン)である。バチカンにしてみれば、古代ローマを殺す理由が十分にある。何せ、19世紀ルネサンスにおいて、自らの信奉する神を殺されかけたのだから。ドストエフスキーにしても、「大審問官」の章においてバチカンを手ひどく批判しているくらいだから、フヨードル殺しの犯人役をバチカンに押し付けるという曲芸もあり得ないことではない。あるいは、どうにも救いがたいほど頑迷な土着のロシア的精神(「悪霊」のイワン皇子を象徴とする救世主信仰など)を古代ローマ殺しの犯人に仕立てることもできるだろう。カラマーゾフの登場人物で言えば、フヨードルを父とする私生児と噂されるスメルジャコフ(ヨーロッパ文化に隷属するロシア的精神の象徴)が適役である。実際、小説中でも、スメルジャコフは、ほとんど真犯人あつかいされた挙句に自殺してしまう。スメルジャコフがフヨードルを殺した真犯人だとすれば、スメルジャコフに象徴される陰鬱なロシア的精神が、「古代ローマ=非キリスト教的人間中心主義」の輝きを抹殺したということになる。そして、それは同時に、ドストエフスキー自身が、愛すべき母国ロシアの伝統的精神に絶望し、その近代的再生を既にあきらめてしまっていることをも意味するだろう。スメルジャコフの自殺は、ロシア的精神の絶望の果ての自滅ということになる。が、それでは小説に救いがなくなってしまう。ドストエフスキー母国ロシアの救いのためにカラマーゾフを書いているのだから、やはり、スメルジャコフの自殺は、ロシア的精神が再生するための儀式として積極的意義づけを与えられるべきであろう。そうなると、スメルジャコフ真犯人説にも疑問符がつく。

 いやいや。犯人捜しはもうやめよう。きりがない。謎は謎のままで良いのだ。ずいぶん長々と19世紀ルネサンスの話をしてしまったが、要するに、カラマーゾフの親父フヨードルは、「古代ローマ=非キリスト教的人間中心主義」の象徴だということを言いたかったのである。さて、そこで、人間失格の話である。小説ラストの、マダムのセリフ「あの人のお父さんが悪いのですよ」の「お父さん」とは何者なのか。無論、太宰の実父である津島源右衛門のことなどではない。そんなわけはない。この「お父さん」は、フヨードルであり、「古代ローマ=非キリスト教的人間中心主義」の象徴なのである。太宰は、言うまでもなく、芥川から強い影響を受けた。芥川は、「19世紀ルネサンス」と、その敗北である「世紀末(人類の黄昏)」に、正面から向かい合った作家である(そういう芥川の系譜につながる作家として、太宰、三島由紀夫安部公房がいるが、その後はどうやら途絶えたようである)。芥川の代表作「羅生門」で、「或る日の暮れ方」に羅生門前でたたずむ下人の姿は、世紀末の「人類の黄昏」にうなだれる敗北した人類の姿そのものなのである。そういう芥川に影響を受けた太宰は、世紀末の超克をめざした。いや、逆に、世紀末を超克しないことをめざしたとでも言うべきだろうか。そもそも、世の中の誰も、世紀末の超克なんて、めざしてなんかいないのである。世紀末だのルネサンスだのと騒いでいるのは、ほんの少数の文学者くらいで、たいていは、日々の暮らしに一生懸命で、そんな貧乏書生の暇つぶしみたいな抽象論には何の興味もないのだ。しかし、19世紀ルネサンスは、そういう生活者の日常の超克をめざしていた。何せ、神を殺して、人類がその座につこうと本気で考えていたのである。人が神になる!おそるべき野望である。一世紀間にわたり、天才たちの悪戦苦闘が繰り広げられた。けれども、人々は、何も変わらなかった。変わったことと言えば、19世紀ルネサンスの「鬼子」である共産主義が世界中で荒れ狂い、それと同根の双生児であるファシズムが不気味に胎動をはじめていたが、そういうことにも大衆は何の危機感も感じていなかった。が、それでいいのである。何もしなくていい。世紀末の超克?ばかばかしい。人間は、生きていれば、それでいいんだ。醜く、矮小で、つつましい生活者。けっこう。それこそが人間だよ。と、これが、太宰の結論なのである。ほとんど、やけくそである。

 けれども、つつましい生活者こそ人間だと結論しながら、太宰自身は、どうしても、そういう人間にはなれなかった。あくまで、新しい人間を求めた。空襲の焼け跡の中から、世紀末を超克し、神と対等に向かい合う新しい人類の出現を期待した。だから、「人間失格」なのである。神と対等になろうとするような不届き者は、「人間失格」の烙印をおされて、神に対する罪人として地獄に落とされるのだ。大庭葉蔵は、そういう太宰の分身である。葉蔵の中には、「古代ローマ=非キリスト教的人間中心主義」を夢見る芸術家(画家)、無神論的合理主義に感化された活動家(共産主義)、そしてキリスト教的な無垢の信頼への憧憬(ヨシちゃんへの愛)のすべてが同居している。これらは、それぞれ、ドミトリー、イワン、アレクセイのアナロジーである。すなわち、葉蔵の中には、カラマーゾフの三兄弟が同居しているのである。そして、葉蔵は、そのすべてにおいて敗北する。敗北して、周囲のまっとうな生活者たちを悲しませ、迷惑をかけ、苦しめるだけの存在である。神に逆らうことは罪である。けれども、神に従う従順な生活者として日常生活を送ろうとすればするほど、敗北者として世の中から罰をうけ、血を吐き、狂人として監禁されるのである。罪と罰。逃げ場所のないアントニム。もう、葉蔵の中には、何も残っていない。すっからかんである。人間の抜け殻。廃人。葉蔵の何が悪かったのか。いや、葉蔵は、何も悪くない。太宰は何も悪くないのだ。が、ただ、ひとつだけ、彼の責任ではない過ちを犯した。それは、「古代ローマ=非キリスト教的人間中心主義」という芸術上の「お父さん」を知ってしまったということである。太宰は、その身を焼き焦がすような燦然たる19世紀ルネサンスの天才たちの恍惚を知ってしまったが故に、ただそれだけのために、人生を棒に振り、神に対する罪人となった。だからこそ、バーのマダムの言うとおり、「お父さん」が全部、悪いのである。そして、こんなろくでなしの「お父さん」さえいなければ、葉蔵は、神の怒りに触れることもなく、聖書の中の清き人々のように、神の祝福を受けていたであろう。

 と、いうことで、ずいぶん長い話になってしまった。でも、ほら、どうです、こうして見ると、人間失格と、カラマーゾフは、似てるでしょ。え?全然似てない?そんなわけはないんだが。はい。すみません。そんなに怒らないでくださいよ。けれども、僕は、これだけは自信を持って言えるんです。葉蔵の苦しみは、象牙の塔にこもっている大先生よりも、我々のように、若き日の一時の芸術的熱情にまどわされて、せっかくの人生を棒に振った哀れな文学青年くずれの方が、よほど実感していると。